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豆吉の歴史

横浜市金沢区で2015年に開業した豆腐店「豆吉」 10周年を迎えるにあたり、店主:岡部吉明の来歴を中心に、これまでの歩みをまとめています。これは一つの豆腐店の成り立ちの記録であるのと同時に、豆腐製造の業界が大きく変動した時代の記録としても意味のあるものだと考えています。
とうふの太田屋 前編

昭和22年、岡部吉明の父、彦市が東京都文京区に食料品・雑穀商として「太田屋商店」を開業。国内外からの大豆を豆腐業者向けに卸売りを始めました。 昭和46年には、彦市が率いる一同は事業を拡大し文京区白山に移転。この頃には、太田屋商店は業界内で重要な地位を築いており、多くの豆腐業者にとって信頼できる大豆の取引先となっていました。 その頃、急拡大を続けるスーパーマーケットチェーンは事業規模を拡大する過程で、豆腐の仕入れを自社(もしくはグループ会社)で行うため、それぞれのチェーンが豆腐工場が各地に作り、それまで個人店ばかりだった豆腐生産が工場での大量生産へとシフトしていきました。 また、スーパーマーケットの隆盛と時を同じくして起きた個人商店の後継者不足により、太田屋商店の得意先である個人営業の豆腐店が加速度的に減少を始めていました。これは近い将来、大豆の卸先を大量に失うことを意味しており、彦市は大豆卸を中心とした事業の将来性に危機感を感じはじめていました。 このような時代背景の中、太田屋商店が大豆を卸していた「丸正タンパク食品」(スーパーマーケット「丸正」チェーン傘下)が廃業するという知らせが彦市の元に届きます。当時勢いのあった丸正チェーンへ豆腐を卸す工場を再生することができれば、工場としてはもちろん大豆問屋としても生き残る道ができると考え、未回収の大豆代金と引き換えに埼玉県北本市にある丸正タンパク食品を事業継承し経営に乗り出します。 しかし、事業を継承したものの、現実問題として彦市は豆腐製造の分野に関しては全くの素人で、製品の品質から生産効率に至るまであらゆる問題が山積したまま、豆腐工場の業績は低迷を続けました。 この時、のちに豆吉を立ち上げることになる、岡部吉明は大学を卒業し大手食品問屋「小網」に就職しており、業務部のビールの仕入担当として勤務。当時、ビールは新商品が次々と発売され仕入れの規模も大きく、社内でも刺激のある面白い職場でした。しかし、家業が問屋である吉明は、問屋の花形である営業部への異動を希望しながら、日々を忙しく過ごしていました。 そんな中に、豆腐工場を軌道に乗せることができずにいた彦市から、その工場経営を依頼されます。吉明は、一度は「営業部を経験してからにしてほしい」と断るものの、想像を超えて経営の危機に瀕していた工場の状況を目にし、その立て直しに乗り出すことを決意します。




とうふの太田屋 中編

退職した吉明は、まずは一から豆腐製造の技術を学ぶことから始めました。最初は業界最大手「ホーム食品」の工場での製造工程を学びます。ここでは1日500俵の大豆(豆吉の約1000倍)を使用した上で、豆腐を製造する過程(大豆の管理→漬け豆→水洗い→豆乳製造→豆擦り→煮沸→絞り→凝固)から油揚げや生揚げ、がんもどきの製造まで、作業の大部分を自動化しており、ここで吉明は当時最先端である機械化されたラインを実際に目にして強い衝撃を受けます。 次に訪れた文京区にある個人経営の「野口豆腐店」では、豆腐はすべて手作業で作られており、一つ一つの工程を見ながら豆腐作りの原点を実感していきました。一方で、このお店は個人店には珍しく油揚げに関しては、自動揚げ機を使用していました。この油揚げは味も価格も評判が良く、のちに「豆吉」で結実することになる「味にこだわる個人店でありながら合理化した製造工程」と言う方向性を求めていくきっかけとなる経験でした。 これらの経験を経て、いよいよ吉明は埼玉県北本市の工場に向かいます。最初は商品が実際に売られている現場を知るため、配送コースに同行。当時は配送員がスーパーの鍵を預かり、営業時間外にショーケースに並べるルート配送だったこともあり、売り場で他社の豆腐が売り切れている中、大量に売れ残っている自社製品を見て唖然とします。売上にならない上に返品対応が必要になってしまう売れ残り商品が大量にあるようでは、業績が上がるはずもありません。この経験はまずは何より品質面での立て直しが必要なことを痛感させられ、後の取り組みの方向性を決定づけます。 その後、いよいよ工場に勤務。3時に起床しボイラーでお湯を回して豆乳を製造、そこに凝固剤を入れ撹拌し凝固させる。工場長と二人で作業するものの一部がうまく固まっていない。一方で凝固剤を増やせばカチカチやザラザラの食感に。この品質では売れ残るのも当然と、従業員には「ダメなものは捨てる。おかしいと思ったら必ず報告するように」と指示し製造を続けますが、廃棄処分が増えることでさらに赤字は拡大。従業員が「吉明さんは早くここを潰して就職したいんだ」と囁くような状況に陥ります。 しかし、一方でルート配送の担当者からは「少しずつ売れ残りが減っている」と言う報告が徐々に入り始めます。そこで1週間の休暇をとり、再度「野口豆腐店」で修行をすることにしました。手作業で一つ一つの手順を繰り返し確認し、規模は違えど自社との違いを探し続けました。結果として凝固させる過程ではなく、それ以前の「安定した豆乳」を作り出すことがまず不可欠だという結論に辿り着きます。 ただ、一言で「安定した豆乳」というものの、工場生産では豆乳を生産する過程における全ての機械や処理を見直す必要があります。これには各機械メーカーや研究者に協力を仰ぎ、同時にいくつもの豆腐店の商品からもその品質を学びながら試行錯誤を重ねます。さらに当然ながら最終的には製品化する必要があり、従業員たちと共に工場での実践を重ねながら改良を続けていきました。 このように豆腐自体を改良する一方、少しでも業績を好転させるべく、豆腐として出荷できないロスを活用するため、「ホーム食品」で担当していた、がんもどきの製造などにも力を入れていきました。 少しづつ、豆腐も安定し歩留まりも良くなり、ガンモのおかげでロスも少なくなり、油揚げもまだまだでしたが改善され、売り上げも徐々によくなっていました。 その頃、長女が生まれ1歳ぐらいの時、離乳食に豆腐を混ぜると吐き出すこと を見て、私が造っている豆腐を自分の子供が食べない現状にショックと恥ずかしさでどうしようもない気持ちでした。 子供が豆腐嫌いでは、豆腐屋に将来はないと思うと同時に「子供たちが美味しい」という豆腐を造らなければいけないのだと決心しました。 豆腐特有の風味はコク味としてある一方で、特有の大豆臭を伴い、えぐみ、苦味として敬遠されるのも事実です。 この時から、安定した豆乳造りと大豆臭(コク味)を旨味に変える方法を追求する日々が続きました、釜の蓋を開け臭いの確認、煮方を変えて味の確認。 遂に長女が3歳の時、一口のスプーンの豆腐を食べたときは、嬉しかったです。でも、食べただけで「美味しい食べ物」ではない様です。 そんな中で、太田屋の豆腐製品は徐々に評価を受けるようになり、業績は回復の兆しを見せていきます。 結果として約4年で売上を5倍へ拡大、赤字の豆腐工場を黒字化することに成功しました。赤字続きの太田屋商店は、豆腐工場が黒字化したことで、個人事業主の岡部彦市は白山の不動産収入と大豆屋で「長者番付」にも掲載されるほどに成長。そして、昭和62年、太田屋商店を「株式会社 太田屋」として法人化することになります。




とうふの太田屋 後編

品質の向上により太田屋の豆腐製品は、その後デパートやスーパーなどの小売店から、学校給食や飲食チェーン店まで幅広い場所に卸されるようになりました。しかし社会的に衛生環境への要求が高まる一方で、当初からある工場は老朽化が進行していました。そこで吉明は生産力とさらなる品質向上目指し、昭和59年には新工場の建設に向けて動き出しました。 既存の工場は隙間も多く不衛生な上、効率的な機械配置もできないため増築による拡張は諦め、既存工場で豆腐の生産自体は続けながらも、敷地内の空地に新しい建物を建設し、ほぼ全ての機械を新設。事業規模としては非常に大きな投資を行い、旧工場では1日あたり大豆3〜5俵(*1俵あたり豆腐600丁程度)の生産能力だったものを10俵以上の生産が可能な規模に合理化しつつ拡大する計画を立案した。 昭和62年に新工場が完成し、稼働を開始。ここで生産された豆腐は、以前よりさらに味、質ともに評価が高まり、太田屋の名前を押し上げた新製品が誕生します。オリジナルの正田醤油製の「とうふのしょうゆ」を添付した、寄せ豆腐、ごま寄せ豆腐、青大豆寄せ豆腐の3種類の同時発売でした。この豆腐の大ヒットにより、この時、豆腐の太田屋の売上高は引き継いだ当時の20倍である4億円に達していました。 その後、同じスーパーチェーンに卸していた競合メーカーの倒産などもあり、ピーク時には1日あたり40俵もの大豆を使い豆腐を生産し、売上げは6億となり、この30年の工場経営で、「とうふの太田屋」は量産ながら美味しい豆腐屋として認知され、その技術を持って評価を確立することができていました。しかし吉明は一方で豆腐作りの本質的な部分について常に疑問を感じ、もどかしい思いを抱えていました。 また前述のように、この時代はスーパーマーケットが急拡大する時期と一致し、その中で豆腐生産に求められるのは量産と、なによりも低い卸売価格でした。その結果、生産の現場では常に味/品質とコストを天秤にかけ、一円単位での調整に苦慮しつづけることとなります。吉明はこの豆腐作りを取り巻く環境に限界を感じ、何より美味しさの追求と離れていく状況から太田屋の事業を手放すことを決意。後継者もいないことから、同種の企業に工場や設備を含め事業そのものを譲渡しました。




























豆吉のあゆみ

慌ただしい日々の工場経営を終え少し時間ができたため、あらためて各地の大豆を見直すことを始めました。日本各地には昔からそれぞれの土地に根差した固有の在来種と呼ばれる大豆があります。先代の大豆問屋から長い間、各種の大豆を扱ってはきましたが、在来種の大豆は生産量も少なく、供給量や価格の面で大量生産には向かないため、手に取ることも少なかったのです。しかし工場経営を離れあらためて在来種の大豆を見直すと、その味、香りのみならず、守り育てられてきた歴史の素晴らしさに衝撃を受けました。 そして新たな挑戦をする事になったのは、滋賀県産の「ミズクグリ」との出会いが何よりのきっかけでした。訪れた生産地には、豊かな風景と清らかな水があり、その環境の中で育てられた「ミズクグリ」に魅了され、それを活かした最高品質の豆腐を作りたいと考えるようになりました。ただ、先述のように在来種の大豆は基本的に生産量が少ない上、地産地消に近く安定的な供給が難しいことが多いのですが、「ミズクグリ」に関しては生産者も意欲的で、供給自体に問題がないことも幸いしました。 そうなると、いよいよ自分自身の豆腐を作る段階に進むにあたり、勉強会はもちろん、ライバルとなる著名な個人店を食べ歩き、製造を見せてもらうことから再スタートしました。時には他店の手伝いをしながら教えを乞い、個人店ならではの豆腐作りを一から学び直していきました。ここでは当然、味の追求のため他店の仕事ぶりを吸収する一方で、肉体的に過酷な作業環境を目の当たりにして、あらためて個人店の難しさを痛感します。 しかも現在、個人店は高齢化が進み後継者不足により毎年約500店が減少し続けています。そして営業している店舗も店売りのみで成立しておらず、学校給食、業務店卸し、引き売り、配達が主となっています。他の業種を見れば、パン屋、和洋菓子店の小規模製造業や飲食店は来店客のみで運営できているのにも関わらず、豆腐屋では来店客のみで運営できる店舗はごくわずかとなっています。 そんな状況の中でも吉明は、来店客だけで成り立つ店を目指し挑戦を始めます。しかし、具体的に考えていくほど従来の業態のままでは厳しい挑戦になるのは目に見えていました。そこで製造所の脇で販売しているような従来の店舗ではなく、買い物をして楽しいと思える空間づくりを目指して、ブランディングとデザイン全般を「矢部デザイン」、建築設計を「RG DESIGN」に依頼し、店作りを進めて行きました。これはもちろん自身の店の生き残るための戦略であると同時に、個人の豆腐店という業態が残っていくためのモデルケースになって欲しいという希望でもありました。 「矢部デザイン」「RG DESIGN」の協力も得て、豆腐工房「豆吉」を2015年、横浜市金沢区に開業。生産については小規模な個人店であるものの、工場生産の改良や新築、さらには急拡大する生産現場の変化を経験したことで、伝統的な手作業のみに拘らず合理的に良い味を生み出し続ける製造方法を確立していきました。 具体的には要所に機械を使用するのはもちろん、その設定までを理論と経験の両面から管理することができ、質的にも衛生的にも優れたものを作りながら、身体的な負荷は従来の豆腐店よりもはるかに軽いものにできるように改善していきました。 一方で、その中でも豆腐自体の改良は常に行い、大原則である「安定した豆乳」を製造する過程で味を追求し、現在でも少しずつ濃い豆乳を生み出す方法を考え続け味の向上を続けています。 このような努力が実を結び、豆吉の豆腐は高い評価を受けるようになりました。近隣の住民のみならず都内や遠方からも購入に訪れる人も多く、さらに全国豆腐品評会でも、2023年絹ごし部門で4位、寄せ豆腐部門で6位に入賞し、その名を全国に知らしめることとなりました。 吉明はこれまで、量産工場では合理化していく過程で最適な機械の使い方を追い求め、一方で工場では解らなかった豆腐造りの本質を「豆吉」で自ら創り上げることで知るという、豆腐づくりのあらゆる面に携わってきました。その結果、それぞれの理論と経験を活かせば、量産しながらも本当においしい豆腐作りが可能だとの考えに至りました。 事実、数は少ないですが「豆吉」の店作りなどを参考にした新しい豆腐店も開業しており、少しずつではありますが個人豆腐店の新しい業態として、認知され始めたと言って良いのではないでしょうか。










豆吉の現在

現在は、豆吉の豆腐はその美味しさから広く知られるようになり、日本各地だけでなくドイツやスイス、アメリカなどから豆腐の作り方を学びたいという依頼があるほどです。一般的にまだまだ海外で生産される豆腐はあくまで似て非なるものが多く、固かったり舌触りが悪いなどまだまだ「美味しい豆腐」になっていないものも多いようです。 一方で、特に欧米では菜食主義という考え方が一般的になってきて、近年では将来の食料問題を懸念し肉食からの転換を考える人も増えてきています。このような人たちは豆腐をはじめとした大豆製品を重要なタンパク源と考えていますが、どうしても上記のような豆腐では肉類の代替品としての扱いが多くなってしまいがちです。 しかし昨年、豆吉を訪れ豆腐を食べたスイス人のツーリストが「この豆腐の作り方を知りたい。修行をさせてください!」と言ってきたことがありました。修行については英語での対応も含め受け入れが難しいことを納得してもらったものの、その人が言った「代替品として我慢するのでなく、本当に美味しい食べ物として豆腐を学びたい」という言葉に、豆腐の新たな側面を見た気がしています。この言葉に象徴されるように近年は特に大豆製品が注目されていますが、地球環境だけでなく、それぞれの考え、思い、嗜好を尊重することが何よりも大切です。 豆腐は基本的に保存が効きませんし、日本では日常的な安価な食材と認識されがちなものではありますが、大規模工場では到底なし得ないものを作っている豆腐店が、現在でもどんどんと減っています。 これまでは豆腐づくりそのものに全てを捧げてきましたが、これからは伝統的な在来種大豆も含め、豆腐という文化を私達の60年以上に渡る経験と技術とともに次の世代へ繋げていきたいと考えてます。







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